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中央区立泰明小学校
銀座に行くと、いつも気になっている小学校があります。
東京建築士会様のHPに「東京の建築遺産50選」てのがありまして、詳しい説明が載っていましてので
ここに転載いたします。
銀座の真ん中に建つこの泰明小学校は、島崎藤村や北村透谷が卒業した学校としても有名である。
1923年(大正12)の関東大震災によって、東京市立の小学校は、195校のうち約3分の2が倒犠・焼失し、無傷は2校のみという壊滅的な打撃を受けた。その復興のために東京市は、局長に、日本における耐震構造学の祖で建築構造理論の礎を築いた佐野利器を迎え、臨時建築局学校建設課を設置している。東京市は、小学校の建設を耐震と不燃化対策の一環と位置づけ、被災したすべての小学校を、鉄筋コンクリート造で復興することを決定している。
鉄筋コンクリート造でつくられた「復興小学校」は117校で、1924年(大正13)から1928年(昭和3)の間に着工されており、泰明小学校もその一つである。設計・建設にあたっては、機能性と安全性の重視、校舎と環境の結合設計、経済性などを基本とする設計規格に基づいて行われたが、建物の外観は担当者によって異なったものがつくられている。
泰明小学校の建物では、リズム感のある連続した半円形の窓などに表現主義の影響を見て取れる。近くには、同じく復興小学校の一つである中央区の明石小学校などもあるが、ここでも表現派風の意匠がみられる。その後も、東京市の小学校は建設されているが、外観のデザインは、大正期に多く見られた表現派風のものから、昭和期になると、白く無装飾なモダニズム建築へと変化していく。
なお、校地に接する数寄屋橋公園は、東京市が復興小学校の敷地に隣接して計画した、52の小公園の一つである。小学校を災害時の非難壕所として考え、公園を隣接させることによって、より大きな空地を確保しようとする、都市計画的な観点からの構想によってつくられたものである。震災とその復興、あるいは構造技術や都市計画概念の発展を背景に、近代的な建築・都市を整備しようとした試みの一つといえる。
建築年: | 1929年(昭和4) |
設計者: | 東京市土木局建築課 |
施工者: | 銭高組 |
構 造: | 鉄筋コンクリート造 |
規 模: | 地下1階・地上3階 |
所在地: | 中央区銀座5-1 |
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